水郷汽船史 『過去の繁栄と航路の現状』
以下の文は、2000年、社団法人霞ヶ浦市民協会発行、国土交通省霞ヶ浦工事事務所監修『霞ヶ浦情報マップ ―歴史文化編― 』の作成者本人@『がいあ船長』が作成したものです。
航             路
― 中世から近代の航路変遷 ―
 高瀬船が往来していた頃、霞ヶ浦・北浦沿岸各地には河岸が開かれ賑わいを見せていた。石岡市高浜の高浜神社や、霞ヶ浦町柏崎の素鵞神社の本殿には当時の港の繁栄を描いた絵馬が奉納されている。明治に入ると、利根川水系に蒸気船が開通し、霞ヶ浦・北浦にもまもなく航路が開かれた。 当時最も優勢だった船会社は内国通運会社で1884年(明治17)には既に26隻の「通運丸」を所有。ほかに東京の永島丸、東京航運、千葉県木下の銚港丸、茨城県内では、三運漕店、高浜丸、信義丸、銚浦丸、豊通丸、開運丸大吉丸等、10社以上の船会社が霞ヶ浦内の航路に参入するようになり、各会社間での競争が激化した。
 料金や速度面でのサービス合戦の結果、貨物のみ有料で、乗船料を無料にした会社まで登場した。各社は犬猿の仲で、狭い水路で出会うとわざと衝突し、船員同士が喧嘩を始め、やがて乗客も巻き込んだ大乱闘に至ったというから大変である。
 明治20年代に入ると会社の買収、合併が相次ぎ、霞ヶ浦、利根本川中、下流域は、内国通運・銚子汽船とそれらの同盟会社の独壇場となった。1896年(明治29)12月、土浦−田端間に日本鉄道会社土浦線(常磐線)が開通すると、それまで蒸気船で1泊2日を要した都心まで、わずか2時間で結ばれた。翌年、銚子−東京間の総武鉄道の完通で、従来の5分1の所要時間になると、長距離航路は急激に衰退していった。その後の内国通運は、航路権と船舶を東京通船に引き渡し、1929年(昭和4)、東京通船は東京通運会社に社名変更、銚子汽船と共に(翌年銚子通運会社に社名変更)、霞ヶ浦、利根本川下流域を結ぶ短・中距離型航路へと性格を変えていった。昭和に入ってから鹿嶋参宮鉄道が、石岡−浜間の自社路線と、それに連絡する浜−鹿嶋航路を設けると、1931年(昭和6)には東京通運会社が、土浦−鹿嶋大船津の航路権及び9隻の船舶を出資し、水郷観光汽船会社を設立した。会社設立に合わせ、『あやめ丸』と『さつき丸』が就航、双方とも鋼鉄船で、特にさつき丸は2基のディーゼル機関と2軸のスクリューを備えた双暗車船であった。総トン数は 155トン、浅喫水型としては当時本邦最大級で、『石川島播磨重工 100年のあゆみ』にも登場するほどのものであった。この年、鹿嶋参宮鉄道船舶部と水郷モーター船を併合し、翌年水郷汽船に社名変更した。この頃の本社は現在の京成電鉄グループ成田鉄道本社内にあり、やがて土浦へと移転された。
― 近 代 の 航 路 ―
水郷汽船設立当時の航路は急行船が主であり、以下の航路に就航した。

 @土浦−(一部は、沖宿−牛渡−有河寄港)−麻生−潮来−大船津(鹿嶋)
 A佐原−牛堀、
 B佐原−十六島−潮来−大船津、
 C玉造浜−麻生−牛堀−潮来−大船津

その後、東京通運と銚子通運が合併した銚子合同汽船会社が、各港寄港の以下の緩行船を就航させた。

 D銚子−東京
 E銚子−土浦
 F銚子−高浜
 G銚子−鉾田

 しかし、Cは1932年(昭和7)頃廃止され、銚子合同汽船会社のDはその翌年、EFGの航路も戦前に既に廃止になった。また江戸崎と土浦を結ぶその他の業者のローカル便も存在していた。戦中、水郷汽船の船も一部徴収され便数も激減したが戦後復活し、市民生活が落ち着くと、水泳場や水郷観光を目的とした航路変遷が行われた。
 だが、会社には十分な余力がなく、1952年(昭和27)あやめ丸を売却、バスを運航する水郷観光会社と合併して新たに大型バス6台を購入し、水郷観光交通を設立した。 
水陸両交通の連絡が功を奏し、一時は本社を土浦から佐原に移したものの、1965年(昭和40)息を吹き返した水郷汽船はバス会社とは別経営となり再び土浦に戻った。
 さつき丸、新やよい丸と、土浦−潮来をわずか1時間20分で走る快速あやめ、鋼船の新かしま丸、うきしま丸、かすみ丸、貨物及び郵便船で利根丸を名乗る数十隻等が運航され、戦後の束の間の全盛期に至った。団体専用の屋形船水郷丸も投入された。
 この頃、水泳客を優先するため定期航路は、土浦−浮島−麻生−牛堀−潮来と、牛堀から佐原市の閘門までとなっていた。1969年(昭和44)、浮島の「水の家水泳場」が廃止されると客足は急速に衰えて、1975年(昭和50)9月30日の潮来発土浦行きを最後に、水上の路は百有余年の歴史に幕を閉じた。1975年(昭和50)、水郷汽船はフリッパー号を就航させるが、これは30分間、湖上遊覧をするのみの船であった。*水郷汽船は平成元年1月、58年間続いた水郷汽船の社名を(株)京成マリーナ改め、現在に至る。*
 これら中距離航路の他にも、各地に渡船が存在していた。小見川−息栖、銚子−波崎、田伏−高須、柏崎−浜等である。比較的最近まで残っていた航路は、柏崎−浜間の県営渡船で、県道に架かる橋に当たっていたため「出島丸」が無料で運航され、人と自転車を積載する住民の足として親しまれていた。だが1988年(昭和63)春、霞ヶ浦大橋の開通に伴い廃止、1996年(平成8)1月末、波崎−銚子航路も休航となった。

 1983年(昭和58)、科学万博を目前に控え、常陽観光(株)が土浦−潮来間に季節航路を設定し、エンゼル号を就航させた。翌年、科学万博を機に土浦市と第三セクターの霞ヶ浦ジェットライン(株)が設立され「スーパージェットかすみ」が就航した。「かすみ」は本邦最大のFRP船で、全長28m、最大速力35kn(ノット)、巡航速力33kn(時速約60km)土浦−潮来を50分で結ぶ順調なスタートを切ったが、万博終了後、急激に客足が途絶え赤字に転じ、1994年(平成6)に多額の負債を抱えてやむなく廃航に追い込まれた。
―  現 在 の 航 路  ―
 現在の土浦港からは、あやめまつり開催期間の6月中、第1土曜日から3週間、常陽観光(株)の「つくば」が土浦−潮来を運航するほかには、定期航路はない。<注意>*この文章は2000年に著したもので、2003年より、(株)京成マリーナの季節定期航路が復活し、6月と9月の2週、3週の火曜日に、土浦−潮来−玉造−土浦の環状コース1日2便の季節定期航路が復活した*。土浦を拠点に、前記の「つくば」と、(株)京成マリーナ(旧水郷汽船(株))の双胴船ホワイトアイリスの2隻で、30〜40分の湖上遊覧を行っているほか、団体輸送と、夜間の予約制宴会船も行っている。
 潮来には、さっぱ船で加藤洲及び前川新十二橋めぐりを行う潮来遊覧船組合があるほか、各旅館が持つ屋形船が、予約制宴会船として就航している。
 与田浦には奥水郷遊覧船があり、佐原市の水生植物園前を拠点として加藤洲十二橋めぐりに従事している。
 現在も残る渡舟は、佐原市、香取神宮前の津宮と対岸の仲江間、小見川町富田と対岸の富田新田の間を、通学の小中学生を乗せて運行している。<注意>*2003年現在の調査では小見川、香取の双渡舟とも廃航になったようである*。
水  難  事  故 と 供 養 碑
―  三ッ又 沖 は「渡り難し」  ―
・通運丸と信用丸の衝突

 1935年(昭和10)4月1日、潮来発−土浦行の第38通運丸(後のやよい丸)が現在の霞ヶ浦町川尻の沖を4.5kn (約8km/h)で航行中、無灯火の信用丸の右舷に衝突し、同船を沈没させたまま疾走、2名が溺死した。

・地蔵河岸事故

 1941年(昭和16)5月18日午後5時頃、未登録船であった水郷丸第30号が定員35名のところ77名の乗客と乗務員を乗せ、大船津港を潮来に向けて出港、地蔵河岸にさしかかった頃、南東風で発生した鰐川の波浪が、客室左舷側の開放窓から打ち込み、あわてた乗客が右舷側に逃げたため、バランスを崩し転覆した。背が立つ水深のところで49名が死亡。転覆時にパニックに陥った乗客同士が、互いに掴み合ったために起こった2次災害であった。

・牛渡の艀転覆事故

 大型船が直に接岸できない港には、当時艀船が運航されており、港と本船を結んでいた。1945年(昭和20)10月21日午前7時50分頃、土浦行きの香取丸は、現在の霞ヶ浦町牛渡港沖で港からの乗船済み艀船を待っていた。艀は定員の数倍にも及ぶ40余名と荷物を満載し、牛渡港を出港。香取丸に近づいた頃、本船に早く乗ろうとした数名が突然立ち上がり片舷に寄ったため、船はバランスを崩して転覆、40余名は水中に投げ出された。香取丸の船員や近くの漁船の救助もむなしく乗客15名が溺死、2名が行方不明となる大惨事に至った。

・快速あやめの衝突事故

 昭和30年代前半、快速あやめが就航して間もないころの出来事である。最終便が16.5kn (時速約30km)で夕霞の中を潮来に向かい航行中、美浦村安中沖付近で船体に衝撃を感じ停船した。船尾には真っ二つになった未灯火の密漁船が闇に紛れ、その船長はスクリューに巻かれ即死。遺体を引き上げ、同乗の息子を救助した後、無線で麻生の救急車を呼び、麻生桟橋へ急行した。だが翌日、息子も死亡。当てられた側の船が霞と闇で視界不良の中を無灯火で定期航路内に錨泊し見張りを怠ったことが事故の原因で、しかも密漁船であったために、水郷汽船側は不起訴となった(元・水郷汽船一等航海士、高塚四郎氏談)。
さつき丸について
「さつき丸」は石川島播磨重工で昭和6年に建造され、当時浅喫水船としては本邦最大のもので建造当時長さ50m(戦後30mに短縮)、一部3階建てで霞ヶ浦の女王と呼ばれてました。戦時中、徴収され輸送船、病院船として沖縄へも行った事がある船です。1階の窓を全てベニヤ板で塞ぎ、船底にコンクリート流して重心を下げ、無残な姿で太平洋を渡ったとの事でした。内地へ向けて航行中機銃を受け、上階部分は原型を留めないほど無残な姿で帰郷したさつき丸を見て、故、山本甚之助船長は涙を流したと言います。日本の復興とともに観光ブームが訪れ、水郷汽船もつかの間の盛りを迎えましたが、昭和40年代の高度経済成長の真っ只中、水が汚濁し観光客が遠のき、また豊かになった日本を象徴するかのように訪れたマイカーの波。さつき丸はその波を乗り切れず、昭和の半世紀、地球40周にもわたる距離を走りぬき、水郷地方の人々の思い出を沢山積んで昭和52年、解体されました。さつき丸のラット(舵)は今でも遊覧船のりばの玄関に展示されています。
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