龍宮(琉球)ぬ伝承
 
既に亡きオジーからの聞きかじりであるため、正確ではない部分はお許しください。 文:尚翔上
 
龍宮伝説。―まだ琉球本嶋礁馬嶋が3つの国に分かれていた頃、しかも琉球国の船が世界中を乗り回していたころのお話。
 

昔、琉球国の船が世界中を乗り回していたころの話。

ある日、嘉銘丸は朝鮮京都(京城)との貿易を終え、琉球へ戻る途中、冬の北西の強風に煽られた。
その強風で主帆柱が根元から折れ、操舵不能状態に陥った。
九州の海岸に近付いた時、ニヂィリパマ(虹の松原)への座礁を計画した。
しかし、突然風向きが南東に変わり、佐志村(唐津港付近)へ流された。
嘉銘丸は、佐志村の浜に座礁した。

佐志村のならず者らは、その様子を見ていた。
「朱いでっかい船だ!たぶん唐の貿易船だぞ!宝の山だ!皆殺しにして宝を奪え!」
彼らは斧鎌刀を手に、嘉銘丸に襲いかかった。
佐志村には、浦島家(松浦家と思われる)という酋長の家があり、ダーラ(太郎)という長男がいた。
ただならぬ状況に、ダーラは浜へ駆けつけた。
嘉銘丸はすでにあまたの攻撃を受け、朱塗りは剥げ落ち、無残な姿を呈していた。
さらに、数名の乗組員が刀で切り殺され、浜は血で赤く染まっていた。
ダーラは村の番屋の長でもあった。すぐに村の番役人を呼び、ならず者らを捕えさせた。
嘉銘丸は尋常ではない戊亥(北西)の強風に晒され帆柱は根元から折れ、航行不能だった。
ダーラは佐志村一の大工の棟梁である「?(名前確認中)」を呼び、帆柱の艤装を命じた。
しかし、大島の黒松は、強風が故、曲がりが多く、帆柱とは成りえない。
棟梁は内地の曲がりの少ない黒松を調達し、艤装が完了した。

黒松は節や曲がりがあり、それゆえ嘉銘丸の航海は困難なものであったと思われる。

嘉銘丸の10日を要した修理中、琉球人乗組員たちには、ダーラによって番屋と集会所、浦島家の納屋の一部が供され、役人や村民の好意によりによって暖かい炊き出しが行われた。琉球人が生活していた場所はやがて唐房と呼ばれるようになったと言う。

*『唐房』『唐坊』『東方』は、九州では皆同じく『とうぼう』と発音され、10世紀頃発祥した、九州地区での中華人街であると云われている。それらはあくまでも博多津付近での唐房が宋国(当時の中国)との間での交易を行った拠点であるとは考えられるものの、佐賀の唐房は琉球船をを中国船と誤解したために名付けられた地名である可能性もあるかもしれない。
歴史に唐津の名が出現するのは嘉銘丸が流れ着いた大分後のこととなり、1593年(文禄2)の『唐津藩』の文字が最初のデビューである。

当時、琉球船は、エスパニアから伝授した、レンズと松明による光通信で交信していた。
どの船も通事(通訳通信士)が光通信に従事していた。
琉球王府の貿易船団は、八方への光通信にて嘉銘丸を捜索していたが、困難を極めていた。
一方、息を吹き返した嘉銘丸は岬の突端まで回航され、西の水平線めがけて発信した。
『嘉銘丸無事。ダーラさんに助けられ、明日那覇へ向け出航する。』
その伝文は一夜のうちに千キロの距離を隔てた首里城に伝わった。
琉球王は、自国の民の生命と財産を守ってくれたダーラさんに、甚く感謝した。
「お礼がしたいから是非首里城(琉球の城、龍宮の城)へ来てもらえないか」通事をとおして伝文した。
琉球王の言葉は首里から恩納岳、与那覇岳、そして海を越え、与論、沖永良部、徳之島、奄美大島の高所に常駐している通事を経て、複数の琉球船を梯子(はしご)するかの如く、僅かの時間で伝わり、やがて嘉銘丸に届いた。

嘉銘丸の通事は、ダーラに琉球王の意向を伝え、首里城訪問を促した。
ダーラは琉球王の招きに応じ、船に同乗した。
やがて嘉銘丸は、琉球の港に入港した。飽くまでも澄んだ海水を通し色鮮やかな珊瑚と小魚が飽くまでも澄んだ海水に彩りを加えていた。
一行は港から続く石畳の回廊を城へ向かった。
その途中、広場で歓迎の催しが行われ、ビンガタを纏った踊り手の姿は、天女を思わせるほど美しいものだった。
ダーラは、まるで海底深くの別世界へいざなわれた気持ちになった。

琉球の城に到着すると、哀調を帯びた旋律の音楽が奏でられ、やがて冠を被った王が席に着いた。
「ダーラさん、あなたのお蔭で琉球人と生命と財産が守られました。首里城東殿にあなたの部屋を設けましたので是非そこにお住まいになり、未来永劫に心行まで琉球の舞踊、料理、お酒をお楽しみください」と王はお礼の言葉を述べ、歓迎の宴が催された。
仏教の影響をあまり受けてない琉球では、見たこともない肉の料理が振舞われ、濃厚な泡盛とともに佐志村では味わっとことない驚きの味にダーラは感嘆した。間もなく宮廷の舞踊が披露され、赤や黄色の原色に彩られた美しい衣を纏った踊り手の姿は、海底を舞う、鯛やヒラメの化身にさえ思われた。

それからのダーラの生活は、複数の稽古事をしたり、御付きの人を携え港や那覇の繁華街へ遊びに行く等、日々の生活を楽しんでいた。
毎夜、聞き覚えのある音楽も増え、舞踊を見ながら副菜に彩られた美食と泡盛で満足この上ない生活を送っていた。
季節のはっきりしない琉球での豊か絢爛のの暮らしはまさに光陰矢のごとしである。「いったい何年の月日が流れたのだろう?」
ダーラはそろそろ故郷に帰ろうと決意し、琉球王にお目通りを願った。
「王様、大変お世話になり恐縮ではございますが、故郷の村の事が気がかりで、そろそろ佐志村へ帰りたいと思います。」
そう告げると王は「誠、寂しくなってしまうことゆえ、心痛く辛いことではあるが、ダーラさんの望みであるなら手配を致そう。」その後、王は役人に何かを用意するよう促し、やがて十色にも増す色とりどりの雅な輝きを発する箱が届けられた。
「この箱はダーラさんが琉球人の生命と財産を守ってくれたお礼の徴(しるし)です。琉球一の螺鈿職人の匠の技と、エスパニアから伝わった鏡が使われた逸品です。是非お持ち帰り下さい。」と王は告げた。

数日が過ぎたころ、伝馬船を積んだ朱塗りの琉球船が那覇港奥深くに姿を現した。世代を超えた嘉銘丸であろうか?百余十尺を超えるであろう朱塗りの巨体の船首には虎の首が象られ、貿易国琉球の誇りを思わせる実に見事船であった。
船の通事は、「この船は朝鮮へ貿易へ向かいます。途中ダーラさんの村へ寄港し、そこで離船していただきます。」と告げると長い板橋が船に向けて架けられ、ダーラは琉球船に乗り込んだ。そしてダーラは潮路1000kmを隔てる長い帰路に就いた。

時すでにミーニシ(新北風)の吹き始める秋、神集村荒崎を廻り、日の高いうちに伊佐村の大津に錨を下ろした。
伝馬船に乗り換えダーラは浜に上陸した。
するとそこはダーラの知る故郷、佐志村ではなかった。
山の形こそ同じであれ、建物も景色も変わってしまっていた。
何らかの戦があったのだろうか、知る村の人々はそこにはおらず、浦島家もどこかに逃亡してしまったのか、ダーラの知る顔は誰もいなかった。

途方にくれたダーラは何かの手掛かりを探るべく琉球王より賜れた螺鈿の箱を開けてみた。(この箱は王より賜れた箱であると云うことで、賜れた箱 → 玉手箱と呼ばれるようになった。)
気密の高い玉手箱の中には、出航当時の琉球の暑い空気で充たされていたのだろう、秋の冷たい大和の風は箱の中に結露をつくり、蓋を開けると、箱の蓋裏に水滴に曇った鏡が現れた。
ダーラは手で曇りを拭ってみると、鏡には長年の年月を経てすっかり白髪になった年老いた自分の姿が映し出された。

玉手箱の製法である螺鈿細工は、琉球国から招かれた職人らによって製法が伝えられ、また材料である夜行貝も琉球から輸入された。
その技法は中央ばかりではなく、遥か遠い国、奥州平泉の中尊寺の金色堂(藤原清衡により1124年(天治1)建立)の装飾にも施され、大和の国の新たな文化として開花した。
 

<<水郷筑波観光ガイドに戻る   <<霞ヶ浦の沈鐘―雄鐘・雌鐘―に戻る  <<霞ヶ浦観光マップINDEXに戻る