KWSSG 霞ヶ浦水質調査研究会
Kasumigaura water survey study group
 
1。霞ヶ浦沿岸の神社について 2.石岡市・高浜神社、行方市・八幡神社、八王子神社との比較
松 浦  正 夫
霞ヶ浦沿岸の神社について

水にまつわる神さまの系統
・水の恵みの神様・田の神様、水分神社
・漁業の神様・・・金刀比羅神社など、多くは山の上にある
・水運の神様・・・厳島神社、住吉大社、大山祇神社、
息栖神社(天鳥船神)
・水軍の神様・・・厳島神社、住吉大社、大山祇神社、宗像神社
・水神の形態・・・河童、龍、蛇
神社の成り立ち
1氏神
氏神とは、もともと古代社会において血縁的な関係にあった一族。開発地主が一族の先祖を祀る神社。後には古事記、日本書紀に記載される氏族が全国に進出し、その系統の神様を祭るようになる。
2産土神
産土神は、神道において、その者が生まれた土地の守護神を指す。その者を生まれる前から死んだ後まで守護する神とされており、他所に移住しても一生を通じ守護してくれると信じられている。産土神への信仰を産土信仰という。wiki
中世においては土地の神と言われる。
地名の付く神社
 高田神社、秩父神社
成り立ちの古い神社
3鹿島神宮 石高 2000石
4香取神宮
5筑波山神社
6橘郷造神社
 国造(くにのみやつこ)・・・《国の御奴 (みやつこ) の意》大化の改新以前における世襲制の地方官。 地方の豪族で、朝廷から任命されてその地方を統治した。 大化の改新以後は廃止されたが、多くは郡司となってその国の神事もつかさどった。
 郷造(さとつく)と一色史彦先生に教わりましたが元々は上の例に倣い、本来は郷の御奴(さとのみやつこ)であったと思われます。茨城県神社誌では(さとのみやつこ)とふりがながふってありました。
7雲井宮郷造神社
8楯縫神社(郷中、信太)
9阿彌神社(阿見、竹来)
10蛟網神社(前宮、奥宮)
11総社宮
中央、もしくは遠方より勧請された神社
12加茂神社
13鴨大神御子神主玉神社(桜川市加茂部)
14熊野神社
15諏訪神社
16八幡神社
17鷲神社
18八坂神社(須賀神社)
19大国玉神社
20三輪神社(大神神社・・おおみわじんじゃ)

石岡市・高浜神社、行方市・八幡神社、八王子神社との比較

 行方市の八王子神社の本殿の修理により、大工は桜井瀬左衛門と書かれた棟札と墨書が出て工匠名や職人の名前が判明した。建築文化史の一色史彦先生が調査した折りの記録から、様式により桜井氏の作事と思われていたが、桜井氏の工匠組織の判らない部分も見えてきたように思われる。麻生町の羽生均さんの保存修理報告のお陰てある。
 八王子神社の形式は正面に柱が4本あり、柱間が3つ有るのを三間社と言う。側面から見ると屋根が本殿の身舎から向拝に向けて流れるように下がっているので流れ造りと呼ばれている。通常は三間社流造と言う。同形式の桜井瀬兵衛が建てた神社が近隣に三社ある。石岡市高浜の市指定文化財である高浜神社本殿、行方市八木蒔の市指定文化財である八幡神社本殿、無指定であるが行方市行方の八王子神社本殿である。改めて三社を見較べて様式が揃っていることが判明した。古い順から八木蒔の八幡神社本殿1674(延宝2年)、高浜神社本殿1685(貞享2年)、八王子神社本殿1694(元禄7年)と約10年間隔で建てられている。年代判明の資料は八幡神社は擬宝珠銘による、工匠名は様式による推定。高浜神社は石岡市の市史資料集の篠目家文書・神宮寺手控えによる「大工羽黒 桜井瀬兵衛 茅手 七左衛門 貞享二丑年十一月十三日遷宮」とあり、桜井瀬兵衛の建築と判明した。この他参考に、一間社流造であるが1684(貞享元年)には小美玉市玉里の大宮神社が建立され、棟札に「大工中郡羽黒 桜井瀬兵衛 小工 田餘村 石塚長左衛門 天和三年木取り・・・貞享元年終」とある。
 いずれも建物を良く眺めると構造、様式、細部意匠が同形式なので桜井瀬兵衛の作事である。正面から見ると向拝の虹梁上にある蟇股の形が同形であり、型板を使って揃えてある。蟇股の中の彫物は神社によって異なるが、鳥を意匠した物が多いようである。
 身舎の蟇股は八幡神社は桜井瀬兵衛独特の蟇股の肩の所が横に伸びている蟇股を使っている。高浜神社は身舎の四面を彫物のある蟇股を使う。八王子神社は身舎の正面だけを瀬兵衛独特の蟇股を使い、残りの三面は彫物のある蟇股で決めている。
 また、身舎正面の扉の両脇にある窓の部分に三社共に格狭間(ごうざま)を取り付けてある。八幡神社は全体的に彫物が少ないので格狭間の中が彫物になっている。高浜神社、八王子神社は簡単な紋を入れて衣装している。妻飾りは八幡神社は二重虹梁、高浜神社は大瓶束に大きな鳥の彫物が取り付けてある。八王子神社は大瓶束の両脇の妻壁に唐草文様の彫物が付けられている。
 八王子神社本殿の雲肘木に書かれていた墨書「大工 神木藤兵衛、柳田半助、岩崎市兵衛、浦田庄左衛門、藤田孫平、桂木左五兵衛、石塚平三郎、木引 當村 傳右衛門、小高庄左衛門、善兵衛、三之丞」を見ると、この後、瀬兵衛の仕事に出てくる工匠が少なからず判明してくる。本殿に取り付けてある彫物であるが八王子神社本殿の墨書が出るまでは彫物師の名前が不明で有ったが推定出来るようになると思われる。
 先に紹介した一色史彦先生によると元禄後期になるまで彫物も大工の仕事であった。元禄の前より、大工仕事の分業化が進み、彫物を専業とするだけの仕事量が増えてきたと考えられる。棟札にも彫物師と名乗る名前が出てくるのは成田山新勝寺三重塔の心柱墨書にある無関円鉄からだと云っていた。推定であるが墨書にある 浦田庄左衛門であるが同じ桜井氏作事の、石岡市小塙にある1705(宝永2年)鹿島神社本殿の墨書に「彫物や 浦田八郎衛門」とある。八木蒔の八幡神社から鹿島神社まで30年も経ているので彫物を専業として、この年代になって代替わりした可能性がある。また、 藤田孫平は桜川市の椎尾の最勝王寺大門、1705(宝永2年)の棟札写しに「棟梁 中郡羽黒 桜井瀬左衛門 小工 中野左五兵衛、藤田孫平次」とあり、孫平次と名乗っている。国指定重要文化財の栃木県真岡市の大前神社本殿1707(宝永4年)の身舎の蟇股の裏に残っていた墨書の「寶栄四年笠間箱田村 藤田孫平次」により蟇股などの彫刻に携わっていたと思われる。大前神社本殿と拝殿の龍の彫物には平成の修理により無関円鉄の墨書が出たそうである。ただし、藤田孫平次は大工もしくは小工と一度も彫物師とは名乗っていない。
 桜井瀬左衛門と彫物師・無関円鉄(島村円鉄)との出会い。桜井氏の作事一覧の記録から見ると桜川市椎尾の1705(宝永2年)薬王院三重塔からと思われる。この塔から瀬左衛門の亡くなった年の成田山新勝寺三重塔まで大きな建物にはすべて龍の尾垂木が付いている。二重、三重の尾垂木一本に一つの龍の彫物が付く、これだけ多くの彫物制作現場には、多くの彫物師が働いていたものと思われる。この後、各地に島村流の彫物師が多く排出した。
 以上の墨書、棟札、記録より桜井瀬兵衛の初期の作事資料の少ない中で、八王子神社本殿の墨書の価値は指定されている二社より価値が高い。八幡神社は擬宝珠銘による建立年代の推定であり、工匠名も様式よりの推定、高浜神社の記録は神社の隣に過去にあった、現在は廃寺になった神宮寺文書の写しである可能性が高い二次資料。八王子神社の墨書は建立当初の記録であり、工匠名がはっきりした価値の高いものである。これにより、八木蒔の八幡神社も高浜神社も同じ工匠組織で建立された可能性が高いことが推察される。

 一色先生が常に言っていた建造物の指定基準は国の重要文化財に準拠している。

建造物の指定基準
建造物の部
重要文化財 建築物、土木構造物及びその他の工作物のうち、次の各号の一に該当し、かつ、各時代又は類型の典型となるもの
(一) 意匠的に優秀なもの
(二) 技術的に優秀なもの
(三) 歴史的価値の高いもの
(四) 学術的価値の高いもの
(五) 流派的又は地方的特色において顕著なもの

 八王子神社本殿が市の指定基準で言えば、1〜5まで準拠していると思われる。意匠も優秀であり、技術的に優秀で、墨書も出て、歴史的に工匠も判明し、学術的にも価値が高い。流派で言えば、成田山新勝寺三重塔、真岡市の大前神社本殿及び拝殿が重要文化財に、市内でも桜井瀬兵衛の建物は既に八木蒔の八幡神社本殿と円勝寺山門が指定されている。他市であるが高浜神社も石岡市の指定を受けている。

最後に霞ヶ浦水運と職人の移動について。建築は大きな材料や多くの職人が関わっている。今回の桜井瀬兵衛も生活の基盤は桜川市小塙である。霞ヶ浦とは桜川で繋がっている。桜川市小塙は桜川の最上流域である。その他の職人も近辺や彫物職人の多かった国府・石岡市の辺りであろう。歴史の研究家によると地方では江戸時代に荷車は使われていなかった。人力か、船または馬で運ぶしかなかった。大工職人も大きな部材は現場で加工するか、細い部材は家で加工して船で運び搬入したのではないかと思われる。工匠の判明は神社などの建築が修理の時に現れる。推定であったものが判明するのは有難い。

八王子神社本殿格狭間 高浜神社本殿格狭間
八木蒔・八幡神社本殿格狭間
八王子神社本殿 蟇股 平面図( 右 )
高浜神社本殿 蟇股 平面図( 右 )
八木蒔 八幡神社本殿 蟇股 平面図(右下)
Kasumigaura water survey study group