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利根川の東遷以降、同社の体積や埋め立てなどにより、海への出口は非常に狭くなり、やがては通 水能力をほとんど失って淡水低地湖としての運命を歩み始めた。膨大な水量を持つ利根本川は一度 増水すると香取浦跡地の低湿地帯を呑み込みながら霞ケ浦と逆流した。その後、貧弱な常陸利根川 は水位を下げるまでに極めて長い時間を要し被害は長期に渡って続いた。昭和23年に、建設省は常 陸利根川(当時の北利根川と常陸川)の通水能力を毎秒1000t以上とし霞ケ浦の水はけを良くする目 的で拡幅と浚渫に着手した。幅は潮来付近で 70mから230mに広げられ、また利根本川下流部でも浅 く通水障害になる河床を浚渫し通水不良による異常高水位でしばしば霞ケ浦に発生していた逆流型 洪水を防止するための努力がなされた。すると昭和30年以降、広く深くなった諸河川を大量の海水 が逆流し、害をもたらす結果となったのである。そこで洪水と塩害を防止する目的で昭和33年に逆 水門の建設に着手し、38年にその完成をみた。しかしシラスウナギの遡上や、汽水域に生息してい るヤマトシジミを採取する漁業者を保護するため、逆水門は閉鎖されず、唯一閉鎖したのは水田の 引水期と、利根本川が増水した時であった。逆水門完成後、霞ケ浦に構図ではなくなったが利根川 から年間30億トンから最高50億トンにもよるとみられる洪水時の逆流もなくなった。利根川からの 逆流水は霞ケ浦の水質にどのような影響を及ぼしたのだろうか。事実上水中の利根本川の水は濁っ てはいるが非常にきれいで、バケツにくみする十分放置すると水道水のように透明になりCODも2mg /l以下である。ここで把握しておかなければならないことは霞ケ浦が海として誕生して数千年を経 て淡水湖へと移行し、再度汽水湖となったのは逆水門完成の約8年前であるという事実である。逆 水門が昭和38年に完成すると洪水はなくなったが、塩害は49年まで続く。この時期、農業と漁業の 間で存亡をかけた大変なやりとりが行われていた。 |
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