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歴史が教える霞ケ浦浄化法 −霞ヶ浦の変遷と汚濁の歴史3− |
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昭和45年、霞ケ浦の汚濁が目につき始め、最大の水泳場であった浮島は水泳不適となり廃止された。
このころまで利根本川の流量は安定しておりの農業漁業双方とも比較的安定していたと考えてよいだ
ろう。しかし翌年46年に完成した利根川河口堰により利根本川の流量をコントロールするようになる
と塩分濃度に上昇の兆しが見え逆水門は閉鎖された。この年の7月、常陸利根川のシジミの大量死が
起こり、8月には西浦でも養殖鯉の大量死が起った。翌47年5月、ヤマトシジミは天然・養殖ともに
全滅し、漁業者の間から逆水門開放が叫ばれた。その後水門は解放されたが、雨量が少ない上に河口
堰の放流量のコントロールで翌48年4月に至るまで逆水門上流の日川では4000mg/lにも及ぶ塩分濃度
を記録した。農業用水確保のため、順流操作行われると、塩分濃度は700〜300mg/lに下がるが、6月
に入ってヤマトシジミの問題が問いただされると逆水門は再度解放され、塩分濃度は高いところで60
00mg/lにも達し、塩害が発生した。この年は7月に入り史上最悪の養殖鯉大量へい死が起こり8月に
はアオコが大量発生して特に高浜入奥部では厚く層をなしたアオコの上をカエルが跳びはねるなど、
過去の美しかった霞ケ浦は最悪な変貌を遂げたのであった。逆水門完成からわずか10年目のことであ
る。県は事態を重く見たのか、逆水門の完全閉鎖が決定していたにもかかわらず、9月には開放され
昭和49年初頭まで開けられたままとなった。この時期はシラスウナギの遡上する時期でもあり、鯉や
シジミの大量死や解決しつつある漁業補償とも相まって漁民の感情を刺激したくなかった様相もうか
がえる。しかし、昭和48年から49年にかけて、例年よりも記録的に降水量が少なく1月には逆水門直
下で塩分濃度が13000 mg/lにも登り西浦湖心南部でさ400 mg/lに達するという緊急事態が発生した。
その後逆水門の順流操作が繰り返されたが、5月に至っても高濃度の塩水が残った地域もあり、県は
助成措置を講じ井戸掘りを進めたが、干拓地などでは、高濃度の塩水が出るなどして、仕方なく塩分
を含んだ表層水を使用したところでは激しい塩害を受け、農家そのものの存亡も危ぶまれた。逆水門
が完成してから昭和40年と45年にも海水の逆流が起こっているが、時期が良かったことなどの理由で
それほどひどい塩害は発生していなかった。昭和49年の塩害は、逆水門があるのにもかかわらず最悪
の被害となってしまったのだった。昭和48年と49年には塩が相当逆流していたにもかかわらずアオコ
の大発生と養殖鯉の大量へい死、そして CODは10mg/lを超えるなどといった他方面でも最悪の事態も
起こった年でもあった。そして昭和50年、逆水門は順流開放をのみ行う事実上の完全閉鎖へと性格を
変更したのであった。やがて昭和57年に「霞ケ浦富栄養化防止条例」が施行され現在に至るが、霞ケ
浦を相変わらず汚い。平成15年には、スケレトネマポタモスという珪藻類のプランクトンが大発生し
水は赤茶白濁に酷く濁り、KHV(鯉ヘルペス)と相まって、漁業に大きな被害をもたらした。ここ数年
続いている水の強い白濁も、未だ原因不明で非常に不快な様相を呈している。利根本川の東遷以後の
歴史をみると一目瞭然であるが、霞ケ浦は利根本川の大洪水とともに歩んできた。洪水による水の入
れ替わりをなくして広く浅いきれいな、低地湖としての霞ケ浦の運命はありえない。常陸利根川の拡
幅と浚渫が行われ、昭和30年より汽水湖としての霞ケ浦出来上がるが、江戸時代末期からそれまでは
通水能力の低い水路を介しており、海の影響を受けない淡水湖であった。霞ケ浦の淡水が必要である
現状を踏まえきれいな淡水湖だった時代の霞ケ浦を再現する浄化法を私はここに提案し、その実行を
促したい。 |
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